終わらないでカーテンコール

「ただいまー!ここがサニーの家か!」

2人で玄関に駆け込む。今日はずっと遊んでいたのに元気だな、と思いつつサニーは靴を脱いだ。ケルは靴を脱ぎ散らかして、玄関をキョロキョロと物珍しそうに見渡していた。今ではすっかり見慣れた我が家だが、そんなに見られると落ち着かない気分になってしまう。

「おかえりなさい!ケルくんもご飯、食べてくのよね?」

料理していたお母さんが駆け寄ってきてそう聞くと、ケルはVサインを返す。

「もちろん!おばさんのご飯久しぶりだぜ〜」

「なんだかケルくん、また大きくなった気がするわ。日光を浴びてよく運動してるからかしら。サニーなんて普段は滅多に外に出ないのよ!」

余計なお世話だ、と思うけど口には出さない。僕が怒ったところでお母さんはどこ吹く風と聞き流すからだ。お母さんがケルと思い出話を始めようと口を開きかけたとき、ピピッとタイマーが鳴る音がした。

「あら、まだ料理が途中なんだった!またあとで話しましょ!」

お母さんは忙しそうにバタバタと駆けていく。

今だ。僕はまだどこかそわそわしているケルの服を引いた。

「サニー?どうした?」

緊張して少し手が震える。言わない方がお互いにとっても良いのかもしれない。このままバカみたいな話だけをして、帰っていくケルを見送るべきなのかもしれない。でも、今日ケルを呼んだ目的のひとつはこれなのだ。

「ピアノ室に来て」

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ピアノ室。以前の僕だったら近寄りたくもなかった場所だ。そして、ケルも複雑な気持ちを抱いているだろう。僕たちの思い出の中心にいた、マリが大切にしていたピアノがあるから。どうしても思い出してしまうから。もっとも、今の家は引っ越す前の家とは間取りが違っていて雰囲気も違うのだが、それでもピアノから感じる静謐な空気は変わらない。

「ピアノ……、捨ててなかったんだな」

うん、と小さく頷く。お母さんも捨てたくなさそうにしていたし、僕も入院し、真実を告白したあとにはマリとの思い出を手放したくなかった。一緒に連弾したこと。ピアノを弾く真剣な横顔。ミスしたときの恥ずかしそうな笑顔。全て大切な記憶だと、今となっては自信を持って言える。

「最近、少しだけど弾いたりもしてる」

「アニキもきっと喜ぶよ」

ケルがぽつりと呟いた。それは……どうだろう。真実を告げたときのヒロは、僕とバジルに一瞬鋭い目を向けたものの、次第にどう受けとめていいか分からないというような困った表情になっていき、ついには静かに泣き出してしまっていた。その様子は親とはぐれた子供のようだと他人事のように感じてしまったが、彼も子供の時期の方が長かったのだ。きっと僕もオーブリーもみんな同じように、マリがいなくなってずっと心細かった。ヒロはマリの死に責任を感じていて医学の道に進んだからこそ、なおさら道しるべを失ったような気持ちになったのだろう。

オーブリーだって僕たちのやったことを聞いて放心していたし、バジルは薄く微笑むだけで黙っていた。ケルがおろおろとしていたのを覚えている。僕もそれ以上の説明はせず黙っていた。何を言っても言い訳にしかならないからだ。とにかく、ヒロは僕のことを良く思っていないだろう。

微妙な顔をしてしまっていたのか、ケルがくすっと笑う。

「アニキだってマリの大切にしてたピアノをサニーが使ってたら嬉しいって。そりゃ、あのときはびっくりしたしヒロだってすごく落ち込んでたさ。

でも、最近は吹っ切れたというか、お前らを責めても何にもならないって思ったみたいだ。今度うちに来て話をしようって言ってたぜ」

真実を告げたとき、ヒロは泣き出してしばらくしたあと「また今度会おう。今は……気持ちの整理がつかない」と言って部屋を出ていき、僕はすぐに退院して引っ越した。ヒロと会うのは少し怖い。でも、ケルがそういうなら僕も話してみたかった。ヒロは年は少し離れているけど、マリの大事な人で僕もたくさん助けてもらった。大切な友達だ。

「それで、ここに連れてきたってことは、サニーの演奏を聴かせてくれるってことだよな?」

僕は頷き、ピアノの椅子に座る。ここはマリの定位置だった。僕は今まで少し離れた位置からバイオリンを持ってピアノを見つめていたから、自分がここに座っているとなんだか不思議な気持ちになる。ケルにピアノの演奏を聴かせるというのはどのコンサートよりも緊張することで、しかし高揚感もあった。逸る胸を抑えて深呼吸をする。

(サニー…… 深呼吸して……怖がらないで。あなたが思うほど怖くはないはずよ)

階段で”なにか”に直面したときに聞こえたあの声は幻聴か、それとも本物のマリの声だったのか。いずれにしても、いつだってマリは僕に優しくて、勇気を与えてくれた。そのことが僕の気持ちを奮い立たせる。

演奏するのは、あの日コンサートに向けてマリが練習していた曲だ。前奏を弾くと、ケルにも何の曲か分かったようだった。指が鍵盤に沈みこむのを感じる。緩やかな音の流れはまるで波のようだ。そう思うと同時に僕の意識も深く沈んでいった。

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オモリが目を覚ますとホワイトスペースにいた。サニーは今日もピアノを弾いているらしい。熱心なことで、とオモリは思う。サニーが気づいているかは知らないが、最近は夢を見ている間だけでなく、ピアノを弾いている時にも少しの間だけオモリは覚醒する。意識がピアノに集中しているからだろう。

オモリはため息をつきながら立ち上がり、ドアを開ける。今日はここにいる気分ではなかったからだ。

サニーが前を向くことを決意したところでオモリは消えるかと思われたが、そんなことはなかった。もちろん今では人格を乗っ取れるほどの力はないが、サニーの中の自己嫌悪などの感情はどうしても完全に消すことはできなかったからである。それに、4年という長い年月を共に過ごしてきたオモリという人格はサニーの脳内に強く根付いている。そのため、オモリは日々変化するヘッドスペースをふらふらしながら暇をつぶすしかなかった。

オトナリルームに着いたオモリはおや、と思った。いつもならみんなでトランプをしているはずが、部屋はもぬけの殻だったからだ。遊び場に行くも誰もいない。前にもこんなことあったなと思いながらオモリは北の海の方へ向かっていった。そこには見覚えのある人影があった。

「オモリ!今日はみんなサイゴノ楽園でヒロくんのお手伝いをしてるみたい。一緒に様子を見に行く?」

オモリはこくんと頷く。そうしてマリと連れ立ってオクブカ井戸まで向かうことになった。

たまにこうしてみんながサイゴノ楽園で働いていることもある。オモリはマリと2人で他愛もない話をしながら歩いていくのが好きだった。12歳のサニーの精神を受け継いでいるオモリにとってマリは好ましい存在だ。オモリはマリの足跡を辿りながら、マリの横顔を覗き見る。サニーにはもう見れない景色を、目に焼きつけてやろうと思って。

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サニーは一心不乱にピアノを弾いていた。鍵盤に触れるたび思い出が呼び起こされる。バイオリンを特に練習していたということもあり、ブランクは長く、その演奏はマリには到底及ばない。

マリはすごかった。自慢の姉だった。少しのミスも許せなくて何度も何度も練習する姿はたやすく思い出せる。マリと自分が喧嘩してあんなことになってしまったのは、ふたりの間にあった練習への向き合い方の違いのせいだった。それでも、目標に向かって努力し続けられるマリを純粋に尊敬していた。きっと、タイミングが悪かっただけだったのだ。だからピアノを弾き始めた。ピアノを弾いていたマリを忘れたくない、そんな気持ちがサニーを突き動かしていた。

今ミスしたな、でも大丈夫。落ち着いて、表情に出さずに弾き続ければいい。マリの歩いた足跡をなぞるように、あのときの曲を演奏する。たどたどしくても、曖昧でも、音色の中を歩いていく。夢の中みたいに……。

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オモリとマリはカーテンがある場所までたどり着いた。ここに来るとマリはいなくなってしまう。いつもなら何も思わないが、今日は無性に寂しく感じる。サニーがマリのことを思いながら演奏しているからだろうか?

オモリがマリを見やると、マリはにこにこと笑っていた。

「オモリ、寂しいんでしょ?しょうがないなぁ、お姉ちゃんがハグしてあげる!」

そう言って抱き寄せられる。ひんやりしている。そして、マリの心臓の鼓動は聞こえない。夢の中なら会えるといっても、それは本当のマリじゃない。

「こら!余計なこと考えないの!オモリは弟なんだから、私に可愛がられてたらいいんだよ!」

心を読まれてるみたいだとオモリは思う。きっとマリに言っても「私たちはきょうだいだから分かる」というに違いない。でも、マリの言うように余計なことは考えなくてもいいのかもしれない。夢の中のマリも現実のマリもその優しさは同じだ。こうして夢の中のマリを通して本当のマリのことも忘れずにいられるなら、サニーがピアノを弾くことでピアノの中のマリと出会うことができるなら、それはそれでいいのかもしれない。

頭がぼんやりしているのを感じる。そろそろ切り替わるな、と思いながら、オモリはまどろみに落ちていく意識の中で声を聞いた。

「私の分までピアノ、楽しんでね」

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演奏が終わった。静かな部屋の中にパチパチ、と拍手の音だけが鳴り響く。

「良かったよ、サニー!なんか、マリと後ろ姿が重なって見えたぜ」

「ありがとう」

拙い演奏だったものの、無事に終わって僕は胸をなでおろした。ケルはピアノを弾くサニーを見て興奮しているようだ。

「本当に、良かったな……。サニーにバイオリンを贈ったこと、ちょっとだけ後悔してたんだ。俺たちがサニーにいらないものを背負わせちゃったかもしれないって……。

でもこうしてサニーがピアノを弾いて音楽を楽しもうとしてくれて、嬉しいよ。バジルもオーブリーもヒロも絶対サニーのピアノを聴きたがるぜ!マリだってそうだ!」

ケルはいつだって屈託のない笑顔で僕のことを認めてくれる。だから一番に演奏を聴かせたかった。本当はピアノを弾くことが少し怖かったから。マリのことを思い出そうとすることが怖かったから。でも、ケルのおかげで僕は前を向ける。

「そう言ってくれて、良かった。でもまだ聴かせられるレベルじゃないし、マリと比べたらどうしても……」

僕が答えると、ケルは少し表情を曇らせる。

「そっか……。でも俺、サニーの演奏好きだよ!こうやってピアノ弾いて、ちょっとでも前を向こうとがんばってるのも、すげーいいと思う!

……家にいる時、たまにマリのピアノとサニーのバイオリンが聴こえてきてさ……。それを聴くのも好きだった。俺、隣の家で本当に良かったよ。隣の家だったおかげですぐにサニーとマリとも仲良くなれたし……。オーブリーたちともたくさん遊べて、最高に楽しかった。アニキだって、きっとそう思ってる」

視界がにじんだ。あぁ、僕は泣いているのか。ケルが困った顔をしているのがかすかに見えた。それでも涙は留まることを知らず僕の頬を流れていく。

「おいおい、泣くなよ!ほら、みんなに聴かせるために練習するんだろ?俺がサニーの演奏聴いてるから!」

ケルが僕を抱きしめた。背中をポンポンと叩く姿はまるで子供をあやしているようで様になっている。ケルはもうお兄ちゃんなんだ、と実感した。ケルの体は温かく、心臓のドク、ドクと規則的に脈打つ鼓動が確かに伝わってきた。

「サニー……。何があっても俺たちは友達だ」

「ありがとう、ケル」

ケルのおかげで乾きかけていた涙を指で拭い、椅子に座り直した。丁寧に、それでいてさっきよりも軽やかな気持ちで、鍵盤に指を沈めた。大丈夫、僕には友達がついている。それに、頼もしい分身だって。きっとこれからも、何があっても平気だ。明るいメロディーが部屋に響き渡った。

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親愛なるマリへ

僕はマリが残したピアノを弾き始めたよ。ピアノを弾いてたマリのことをずっと覚えていたいから。ピアノを弾いてる間はマリに会えるような気がするんだ。まだまだマリには敵わないけど、少しずつ上達してると思う。今度、バジルたちにも演奏を聴かせるんだ。マリにも聴かせたかったな。それじゃあ。

サニーより

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少年は墓に花と手紙を供え、静かに手を合わせた。そして振り返り、一度だけ墓を見やると友達のもとに駆け出していった。