創世記
目を覚ました僕の前に現れたのは白い天井だ。と言っても、それは見慣れた自室のものではない。小説なんかではこういう表現をする時はだいたい病室の中だと相場が決まっているが、病室でもない。天井だけでなく、壁──という表現が正しいかは分からない。遠くに白色が見えるから壁があるんだと思うが、あるのかないのかよく分からない─も床も、何もかもが真っ白な部屋だった。そんな部屋にいたら息が詰まりそうだと思うかもしれない。しかし僕はここに来たのがまるで初めてではないような、生まれる前から知っていた場所のような気さえした。例えるなら、お母さんの腕の中に抱きしめられているような安心感があった。
この部屋はどこまで続いているんだろうか。窓がなくて青い空は見えないけど、代わりに白い景色が一面に広がっている。辺りをキョロキョロと見回してみるも、周りには何も見えない。そうしてだらだらと過ごしているうちに僕はなんだかどっと疲れた気がしたので、とりあえず横になってみた。硬い。こんな不思議な空間でも床はしっかり硬いんだなと思うとなんだか笑ってしまった。それから、まぶたが一気に重くなってきてあっという間に眠ってしまった。
あとから分かったが、この空間は夢の中のようだ。そして、一般的に夢の中で眠る行為は「警告夢」と言い、強いストレスを感じ、癒しを求める時に行われるらしい。けれど、それと今日僕がバイオリンを習い始めたことは何も関係がない。
その翌日。マリと両親におやすみを言い家のベッドで眠ったはずが、目を覚ますと昨日の白い部屋にいた。そして、今回は愛猫のニャーゴがいた。昨日はいなかったのに。僕は不思議に思いつつ、この空間にひとりきりじゃないことが嬉しくなった。昨日は未知の空間にワクワクすると同時に、少し寂しくも感じていたんだ。とりあえず僕はニャーゴを撫でてみることにした。
「なにかを待ってるの?」
ニャーゴの頭に触れると、頭の中に声が響く。猫は喋らないはずだ。子供の僕にだってそれは分かっていた。だけど、僕にはその声がニャーゴのものであることが感覚でわかった。ここなら何が起きても不思議じゃない感じがした。僕は無意識のうちに、この空間が夢の中であることが分かっていたんだろう。
それからというものこの部屋には物が増えていった。三日目にはティッシュ。四日目にはスケッチブック。五日目にはパソコン。僕はもう物が増えることには驚かなかった。ティッシュをちぎって遊んだり、スケッチブックに絵を描いたり、ニャーゴにちょっかいをかけたりして楽しい時間を過ごした。でも、パソコンにゲームが入ってなかったのは残念だったな。日記を書くソフトが入っていただけで、僕は心底がっかりした。でも、明日もなにか増えてるのかなと思ったらなんだか楽しい気分になった。僕はこの空間の虜になっていた。文字通り夢中だった。
次の日、例のごとく僕が白い部屋で目覚めると、そこには何も増えた様子はなかった。なーんだ、もう終わりか。僕がそう思って視線を部屋の隅──正確には隅はなく、部屋は果てしなく続いているけど─に向けた。そこには男の子がいたのだ。白い肌に黒いタンクトップを着ている。病的なほどの白さも気になったが、僕が驚いたのは別の部分だ。その子は僕と同じ顔だった。鏡に写したかのように、どのパーツの位置も角度も僕と変わらない。
「ねぇ……君は誰なの?なんで僕と同じ顔なの……」
「名前はオモリ。僕はあなただ」
オモリという、僕と同い年くらいの少年が簡潔に答える。淡々とした話し方だったけど、不思議とぶっきらぼうな感じはしなかった。その声の高さまで僕と同じだったことにまた驚く。
(僕はあなただ……って、どういうことだろう)
僕はなんだかスッキリしない気持ちだったけど、ひとまずオモリと話してみることにした。僕はいつもケルやオーブリー、バジルと一緒に遊んでいるけど、オモリには誰とも違う、特別な雰囲気があった。仲良くなれたらいいな、と思った。
「友達にはなれない」
僕の心を見透かしたかのようにオモリが言う。僕は不思議な子だとよく言われるけど、この子の方が不思議だと思った。でも、そこまで不審に感じなかったのなぜだろう。
「ねぇ、なんでオモリって言うの?」
「僕が生まれる前から決まってた」
「ふーん……。じゃあ、なんで急にここに来てくれたの?」
「神が望んだから」
「神って誰? 」
オモリはそれまで俯いて話していたけど、僕がそれを聞くとこちらに目を向けた。吸い込まれそうな、ブラックホールみたいな瞳だと思った。実際にブラックホールを見たことはないけれど。
「それはあなただ」
僕はもちろん自分が神なんかじゃないことは知っている。でも、オモリは真剣に僕が神様だと信じているようで、オモリがそう言うならそうなのかと思った。そう思わせる圧というか、迫力があった。
「神は七日間で世界を作ったと言われている。はじめに神は天と地を創造し、ついに六日目には人間を生みだした。あなたもそうだ。」
「神……。でも、それにしては規模が小さいけど……」
僕がそう言うと、オモリは顎をしゃくって、ある方向を見た。
「ドアがある……!」
僕は口をぽかんと開けたまま呟いた。さっきまでは確実になかったのに、ドアはずっと前からそこにありました。とでも言うかのように影を落としていた。
「あそこはもっと広い世界に繋がっている。あなたが全てを作ったんだ」
「そこではなんでもあなたの思うままだ。あなたは最高のヒーローで、オーブリーもケルもヒロもバジルもマリもあなたを愛している。まぁ、あなたっていうのは僕なんだけど、あなたと僕は同一の存在のようなものだから、同じことだ。」
さっきも思ったけど、オモリの話はなんだか難しい。見た目は僕と同じように見えるけど、中身は僕よりずっと大人びている。小難しい話をするオモリの声は自分の声と同じだ。なのにすごく心地よくて、僕はだんだん眠くなってきた。オモリの膝に倒れ込む。
「神は7日目には休息をとるものだ。今はゆっくり眠るといい。でも、あなたがあのドアを開ける日はそう遠くないはずだ……」
そう言って、オモリが何かのメロディを口ずさむ。子守唄だろうか。それを遠くに聴きながら、僕の意識がすっと落ちていくのを感じた……。
僕はその翌日から、あのドアを開けて冒険を始めた。僕と言っても、みんなにサニーと呼ばれる訳ではない。あくまでオモリが主人公で、僕はそれを神の視点から眺めるのだった。それでも僕はすごく楽しかった。ゲームは大好きだ。スペースボーイ船長、スイートハート、ハンフリー…。現実には存在しない者たちと話したり、戦ったりするのは、バイオリンのレッスンより楽しい。僕は現実でのみんなとの遊びを楽しみつつ、夜は夢の中、僕がヘッドスペースと名付けた空間での冒険に明け暮れた。
マリの死後はもっとヘッドスペースにのめり込んだ。父親が木を切り倒してるのが怖かった。母親の気遣うような生暖かい目が怖かった。ケルがたまに家のドアをノックして、遊びに行こうぜと爽やかに、でも遠慮がちに笑うのが怖かった。鏡、湯船の水面、ベッドサイド。そこにマリの幻影が見えるのが怖かった。でも、あのドアを開けて、階段を登った先の遊び場には、四年前のままのマリがいる。それだけが僕の救いだった。
僕だって、このままでいいのかと思うことはある。本当はバジルと話し合って、みんなに真実を告白するべきなのかもしれない。でも、できなかった。みんなに冷たい目で見られるのが怖い。僕は昔からクモに怯えるような臆病者だったから、そんなことできるわけない。そんな僕を、オモリはそれでいいと言う。
「だいたい、バジルが首吊りに見せかけようなんて言うからダメだったんだ。バジルが責任を取ればいい。」
オモリの冷ややかな声が聞こえる。そんなことない、バジルは僕を想って提案してくれたんだ。そう言いたいのに、最近ろくに人と会話してこなかった僕の口からは、うなるような音が出ただけだった。それに、オモリがそう言うということは僕も少なからずそう思っているんじゃないか。だって、オモリは僕で、僕はオモリだから。僕の知らないことはオモリも知らない。つまり、オモリがバジルをちょっとだけ邪険に扱うのは、僕もそう思ってるからなんだ。
「そんなに落ち込まなくてもいい。確かに僕はバジルを疎ましく思っているけど、それ以上に友達として好感を持ってる。あなたがバジルを友達だと思っているからだ」
そう言われても、僕は友達ならバジルのそばにいてあげるべきではないかと、何度も繰り返した問いを頭の中で反芻する。そして、今は判断できない、という結論を出してまた夢の中に逃げ込むのが常だった。
「……またあれやってよ」
オモリがコクン、と頷いて、こちらに手招きする。僕はオモリの子守唄を聴かないと、このホワイトスペースから現実に戻れなくなっていた。オモリを操作している時は腹を刺せばいいんだけど、こうして僕がここにいる時は、ここで眠るしかないのだ。オモリの声は高くてキレイだ。昔は僕も同じだったのに、声変わりして低い声になってしまった。マリをおいて成長していく自分が憎らしくて、同時に12歳のころからずっと変わらないオモリが羨ましい。というか、僕が12歳のまま時が止まってほしいと願っているから、オモリはこの姿のままなんだろう。ちょっと申し訳ない気もする。
「あなたは何も気にする必要はない。僕はあなたのために存在するのだから」
オモリはいつでも僕の欲しい言葉をくれる。だからつい魔が差して、ずっと言いかけてはやめていた言葉を口に出していた。
「ねぇ……僕が苦しみに耐えられなくなったら、オモリが殺してよ」
「分かった」
オモリが即答したので少し驚いた。オモリは僕が最優先だと思っていたから、僕が死ぬと困るんじゃないかと思っていた。けれどそれは違ったらしい。
「僕が死んだらオモリも消えるんじゃないの?」
「仕方ない。体の持ち主の意志を尊重する。そうプログラムされているから」
プログラム。あまり聞いたことがない言葉だ。でも、オモリの存在も、結局は僕の脳が発する電気信号の表れでしかないんだな、という実感が湧いてきた。僕はマリが死んでからはもう全てがどうでもいいけど、それはすごく悲しいことのような気がした。
「あなたは何も心配することはない。僕はあなたの人生をちゃんと終わらせられる。それで十分だろう」
それっきりオモリは子守唄を歌うことに集中し、僕が眠るまで何かを話すことはなかった。おやすみ、おやすみ……。その言葉が僕の頭の中をぐるぐるとかき混ぜていき、僕は深い眠りの底に落ちていった。
でも、今はあんなに僕に優しかったオモリと対面している。戦って生きていくためだ。引越しの三日前、つまり今から二日前に僕がケルのノックに応えたのはただの気まぐれ。でも外の世界は夢の中よりも何百倍も楽しくて、何万倍も美しいことに気づいてしまったんだ。
ケルとハイタッチしたこと、オーブリーとブランコに乗ったこと、ヒロに助けてもらったこと。バジルに目を刺されたことだって、なんだか愛おしく感じた。僕は自分思っていたよりも、この町も、ここに住む人も好きだった。夢の中にまで登場させるくらいに。
「……前は殺してくれって言ってたのに」
「僕はもう、決めたんだ。やってもないことを怖がるのはやめようって。僕は自分が思っているより強いって、マリが言ったんだ……」
「そう」
僕はバイオリンを構えた。弾くのはもちろん、あの日マリと練習していた曲。バイオリンを持つ手が震えたが、それに気づかない振りをして弓を引く。マリのピアノも聴こえてくる。本物のマリがここにいる訳ない。僕はそれがちゃんと、僕の脳内に記憶されているマリだと分かっていた。でもそれでも良かったんだ。こうして四年経った今でもマリを思い出せるなら、これからもきっと、一生覚えてられるよね?
マリとの思い出が走馬灯のように流れる。僕とマリの思い出の間にはいつもピアノがあった。昔オモリに名前の由来を聞いた時、
「僕が生まれる前から決まってた」
って言ったね。ピアノ室に入って、やっと分かったよ。オモリは僕とマリを繋ぐピアノだった。けれど、マリはもういない。だったら、もうキミを眠らせてあげたいんだ。
演奏が終わる。僕はオモリを抱きしめ、オモリも僕をそっと抱きしめ返す。もうそんなに壊れ物のように扱わなくてもいいのに。
「……あなたはもう、僕がいなくても大丈夫なんだ」
「うん、ありがとう。最後までわがままを聞いてくれて。」
「……あなたの人生に、光あれ」
そう言うとオモリはすっと消えた。床に手を触れてみても、普通だ。オモリは僕より体温が低くて、座ったところは少し冷たかった。でももう冷たさは感じない。
オモリは神様になったんだと思う。そして、僕は人間に戻った。でもそれでいいんだよ。人間じゃないと、みんなのそばにいれないから。
「さよなら」
僕は小さく呟くと、床に倒れ込んで眠りにつこうとした。オモリが口ずさんでいたあの子守唄を思い出す。あの曲はマリの好きな曲のアレンジで、もうそれを教えてくれた人はどちらもいない。でも、だったら僕が覚えていればいいんだ。だって僕は記憶力がいいんだから。
目を覚ました僕の前に現れたのは白い天井だ。と言っても、それは見慣れた自室のものではない。病室だ。朝の光が目に刺さったからか、涙が止まらなかった。もうあの部屋には行けないのだなと思った。天井の白を見て、あの子のすべすべとした手のひらを思い出して、また泣いた。
こうして僕の世界はまた新しく始まったのだった。